連載「福祉とアートのあいだ」

[ 筆 者 ]
NPO法人  愛知アート・コレクティブ

代表 鈴木敏春

– その1 –

1928年(昭和3) 久保寺保久が知的障害児施設「八幡学園」を千葉県東葛飾郡八幡町(現、千葉県市川市)に開園する。山下清の居た八幡学園では久保寺保久の遺訓、『踏むな、育てよ、水そそげ』が指針となる。
1946年(昭和21) 糸賀一雄、池田太郎、田村一二によって滋賀県に近江学園が創設される。
1948年には県立の児童福祉施設となる。

糸賀一雄が『この子らを世の光に』と述べたことは有名だが、久保寺や糸賀がアートに期待したものは何だったのか?彼らにとってアートは、障害者の社会的な認知であり、「愛される障害者像」そのためのアートの存在だった。 日本のアール・ブリュットの出発点が其処にあることは明らかである。
元々は社会復帰、日常生活をこなすための職業訓練の一環として作品制作は存在した。そのことは福祉の中で大切なことだし、忘れてはならないことである。山下清にとっては貼り絵であり、それは近江学園などには大量に生産された汽車土瓶でもあり、澤田清一にとっては作陶という手先の訓練としてあった。
つまりここでも日本の福祉政策が雇用レジームとリンクしていることが分かる。

福祉とアートのあいだ vol.1

– その2 –

「糸賀一雄とアール・ブリュツト」
「福祉施設の流れ」

1891年(明治4)石井亮一の濃尾地震による孤児の救援。日本で初めての福祉施設、滝乃川学園スタート。
戦前は20数箇所に施設が開設される。特に有名なのは久保寺保久の1929年(昭和4)児童教化八幡学園。山下清や沼祐一を輩出する。
1934年(昭和9)日本精神薄弱児愛護協会設立。
1940年(昭和15)国民優生法が成立。事実上の断種法。
1945年(昭和20)敗戦。浮浪児問題が「浮浪児狩り」(生活困窮者緊急児童保護)として行われる。施設に収容。今ではネグレクト。
1947年(昭和22)児童福祉法が制定。
目的として「浮浪児を保護するとともに、独立自活に必要な知識技能を与える。」肢体不自由に習えと批判。
1949年(昭和24)身体障害者福祉法。近江学園、一麦荘(年長者施設)開設。親の不安を拭うため。
1956年(昭和31)売春防止法成立。
1966年(昭和41)愛知県心身障害者コロニー設立。(ガン・コロ・ゲイ)昭和40年代「コロニーブーム」大規模複合施設の建設。隔離収容政策。ケネディ教書。
1965年(昭和40)国立コロニー建設。「青い芝の会」隔離政策批判。
1973年(昭和47)オイルショック。経済的自立を目指して各地に共同作業所が出来る。
糸賀は経済的自立、職業的自立が期待出来ない人たちのコロニーを拠点として、地域福祉運動の展開をめざした。糸賀と共に学園を創設した田村二三が1955年(昭和30)に近江学園に訪れた陶芸家・八木一夫に障害の子どもたちに陶芸を教えるよう依頼する。
1964年(昭和39)一麦寮で陶芸活動を開始する。
1977年(昭和52)一麦寮生展で岡本太郎、書家の井上有一から高い評価を受ける。
1993年(平成5)『八木一夫が出会った子どもたち展』滋賀県立陶芸の森美術館で開催。
2004年(平成16)にボーダレス・アートミュージアムNO-MAが開設。
滋賀県近江八幡市の歴史ある重要伝統的建造物群保存地区にあり、昭和初期の町屋を和室や蔵などを活かして改築し、開館した。社会福祉法人グロー(GLOW)~生きることが光になる~ ※(旧 滋賀県社会福祉事業団)が運営するミュージアム。

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– その3 –

今日の読書 2022.10.15
「福祉に生きる」

 糸賀一雄/野上芳彦著 大空社1998年 糸賀と共に福祉現場を歩んだ著者の糸賀伝。享年54歳の糸賀の死に至る日々を、本文の3分の1も充てる。夫人の回想が凄い(^o^) 「糸賀はけっして悔いていないと思います。自分に潔癖で、純粋な生き方をしたい、と思っていた人ですから、若い人には魅力を感じさせる人でした。怠けたり、ぼけたり、心身ともに肉体的老いを恐れていたんです。損得を越えることしか念頭にはなかった、と言ってもいいんじゃないでしょうか。自分を偽ることを恐れ、情実などということは一番いやがっていました。」なんか良く分かる。(^ω^)

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